私の姉は昔も今もボーッとしたホンワカした性格だったが、子供のころはものすごく観察力があった。
その観察力を余すところなく生かして書いた作文が、西臼杵郡文化祭で特選をとっている。数年前、実家の倉庫から発掘され、今年、私がもらってきた。
1963年、姉が小学校5年生、私は小学校に上がる前で、当時は保育園を中退して、家でゴロゴロしていた。もう一人の姉は小学校3年生。ソトヅラのいい姉だったが、そのこともしっかり観察して書いている。両親のことも詳しく書いてあり、なかなか読ませる内容だ。
私の家族の話だけでなく、実家の店の様子から昭和中期の日之影町の様子も少しわかる。なつかしさがつのり、姉の許可を得て、この作文をアップすることにした。
さて、現在、私は漫画家となり、エッセイを書いたり、また人の作品の審査をすることもある。そういう目で姉の作文を読むと、「ああ、これはネタがいいんだな」と思う。文才というよりも、ネタの面白さで賞を取った、という感じ。
いいなあ、ねーちゃん、面白いネタがあって。
とにかく、原稿を写真でアップしてみよう。
わたしの家族 日の影小學校 五年 赤星公代
わたしのうちは、食料品店をしている。食料品店といっても、やさい くだもの かんずめ かしを主として、ちり紙 たわし はし せんざいなどを売っている店なので 毎日の生活に必要になるものばかりだ。それで夕方のこんざつは大変なものである。
わたしの家族は五人で ふつうのうちならお父さんが大こく柱だが うちの場合は母のような気がする。
せまい家だが家族えんまんで わたしがちがけんかをするだけで親は全然しない いい家で、わたしは 何一つ不まんはない。
まずわたしの最も身近な母のことを考えてみよう。
母はまず一番の働き手である。またわがやになくてはならない存在である。
今年の四月まで朝一番のジーゼルカーで雨の日も雪の日もやさいやちくわなどを仕入れにのべ岡まで行っていたが、六年間もわたしたちのために働いてくれていた店員さんがやめたのでのべ岡行きはやめた。
母は朝ごはんのしたくから店のそうじ、はいたつとすこしのひまもない。電話がかかるとすぐバイクで はいたつに出かける。夕食ごもかたずけやみせじまいがあるので、わたしたちの勉強をちっともみてくれない働くことだけしかしゅみがないような母だ。こんな母がかわいそうだ。時には、電話がなかったらハイたつの分だけたすかるのにと思ったこともあった。
と、母のことが詳しく述べられている。今の姉と母の関係を思うと、いろいろ感慨深い。
小学生のころは、今はどうだかわからないけれど、文章の書き方って、先生に言われた通りに書くのがふつうだった。文末を「ですます調」(敬体)にしたら全部統一する、「~だ、~である調」(常体)にしたら最後まで統一する、とか。
だから私も小学生のころ「~~である」とか書いてたなあ…。今では「~である」とか、硬い感じがするのでなるべく使わないようにしているけどね。(←と、つい、こなれた感じを出そうとして口語体にしてしまう)
この後、父の話、私の話、二番目の姉の話が続く。これがまたなかなか面白くて、興味のあるかた、ない方、いろいろだとは思うけれど、お時間のあるかたは読んでみてください。
続きは明日アップします。
注・誤字脱字はそのまま。行間が詰まっていると読みにくいので、改行を多く入れました。