昭和40年代の地方の暮らしが、垣間見える姉の作文。
日之影町は宮崎県北部の中山間地域にある小さな町だ。今でこそ過疎の町となり、人口も4千人を切ってしまった。しかし、昭和の中期以前はまだ人口も1万6千人以上もいた。
昨日紹介した姉の作文を読むと、当時は町も、両親が営む食料品店も、にぎわっていたことがうかがえる。
文体は硬く、おそらく先生の指導の通りの書き方をしているのだろう。最近の小学生の作文を読むと、もっと口語体を使って、ライトな仕上がりになっているものが多い。
口語体を多用したライトな仕上がりの作文は、こなれた感じがする。一読すると子供らしい印象がある。しかし、硬い文章のほうが練られていない分、実は子供らしい、と思う。リアルな子供の文章は、地の文が口語体にはならない。そこへカギかっこをつけて会話を入れると、文章が生き生きしてくる。
文章は敬体、常体を統一しましょう。何を話したのか、カギかっこで会話を入れましょう。しぐさや動作も書きましょう。というような、先生の指導が思い浮かぶ姉の作文である。
わたしの家族2
こういういそがし母も ほがらかでやさしく てきとうにきびしい。だから わたしたち一家をうまくまとめている。
自分のせいが高いので、わたしのせいが日ましに高くなるのをみて、「そんなに高くなるとおかしいよ。」という また わたしが学校へ行く時頭をうまくゆっていないと、「はいピン もっとうまくゆえんとね。」といって自分であたまに していたピンをはずしながらいう。こんな母であるので わたしの成長に気をくばる。
わたしがたのみもしないのに 新しい服をつくってくれる。こんな母は大すきである。
今の顔とむかしのしゃしんをくらべると 今の顔のほうが明るくけんこうそうであるが しゃしんの顔は しずんだようでわらったことのないような そんな顔をしている。
母がなんといっても いちばんおこるのは夜あそびと、きょうだいげんかの時である。これから、気をつけなくては、母のかおにおこったしわがふえてしまう。
次に父であるが
私の父は、五年ほど前に 入いん生活をしたことがあるので 体がよわく 力しごとやむりなことがあまりできない。それで 店の小さいことは、いっさい母にまかせ 遠くや近くのはいたつ ちょうぼがおもな仕事である 父はよそのお父さんにくらべ大変やさしい。でも やっぱりおこるとこわい。
いつもせなかをまげて 外またであるくので ずんぐりしてるようだが お客さんにおもしろいことをいってわらわせたり、ときには小さい子にはあめやみかんをやったりする。
わたしや妹の 宿題でわからにことは、やさしい方法でおしえてくれる 国語の漢字で、わからないことをきくと、「ふうん 今は、こうやってかくのか むかしはこうやってかいたんだ。」とたばこを口にくわえながらえんぴつをとって紙にかきながら教えてくれるよい父である。わたしは、こんな父が大すきだ。
時には、自分で料理を作って 食べさせてくれる。父の料理を、「うまい。」というと、母が「そりゃうまいよ。わたしよりざい料をたくさんつかうもの。」という。もちろん、母の料理もうまい。
父には二つ いけないくせがある。それはやく場で ごはんもたべずに 碁をうっていることである。それを母はひどくしんぱいしている。
それともう一つは 店じまいをしたあと、おそくまでパチンコをしていることだ。パチンコ屋の空気はあまりよくないし それに父は、病気からようやくぬけだした体だ。また、いつわるくなるやらわからない。どれもこれも
やめてくれ、やめてくれといったら、父のいこいがなくなってしまうから、かげんしてするように すべきである。
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うう、懐かしい…。父は確かにたばこを口にくわえながら、私にも算数や漢字の書き取りを教えてくれた。そして、歩き方も外股で歩いていた。そして囲碁が大好きだった。
毎晩、毎晩、店じまいをするとふっといなくなる。パチンコ屋に1時間ほど行って、靴下やキャラメルやチョコレートをもってかえってきた。(パチンコの景品のお菓子はうちで売ってるものよりちょっとおしゃれなものだったから、うれしかったな)
それに、母も姉に服を作っていたんだなあ…。あのころはどこの家にもミシンがあって、簡単な衣服ならその家の主婦が縫っていたし。そんな暮らしぶりが、懐かしくもあたたかく胸に迫ってくる。
さて、明日はいよいよ、末っ子の私を描写したシーンをご紹介。
この描写は、家族で読み返して大笑いした部分だ。
ちょっと思わせぶりではあるが、明日、またよろしく~。