「わたしの家族」5 朝ドラになるかも?
五歳年下の妹たみ子は、よく本を読む子だった。近所の本屋さんの常連(買うのではなく立ち読み)で、私達が立ち読みをしていると、おばあさんに追い払われていたが、妹は公認されていた。漫画をよく描いていた。何歳ごろだったかは覚えていないが、なかなか上手いなあと思ったことがある。
テレビドラマで「次郎物語」というのをやっていて、それを見ながら号泣していた。♪次郎 次郎 見てごらん 白鳥は 風に向かって 飛んでいく ♪というテーマソングと共に忘れられない。とても感受性の強い子供だった。
セーターやカーデガンを、ズボンの中に入れるというスタイルも、独特だった。特別の美的感覚と言うものがあったのだろうか。
英語はNHKの基礎英語で覚えたそうだ。テレビを録画して、毎日繰り返して見たそうだ。繰り返すということが大事なのだ。
それらのすべてが、現在の職業に繋がっているのだなと思う。
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これも懐かしい…。
私の生まれ育った日之影町は、宮崎県北部、西臼杵郡というほとんどが山、という地域にある小さな町だ。
人口も少ない。
そんな中、西臼杵郡の文化を守る、という高い理想を掲げた本屋さんがある。
高橋書店である。
私の実家のすぐ二軒となりにあった。
昭和の子供たちは書店で立ち読みをしては書店のおじちゃんおばちゃんにハタキで追い払われていたのだが、私は保育園を中退して時間があったので、いつも書店で立ち読みを繰り返していた。
まだ本当に小さかったので、おじちゃんの足の間をすり抜けるようにして隠れて読んでいた。
あまりのしつこさにあきれ果てたおじちゃんが、ある日「またお前か、お前ならもういいわ」と言ってくれたのだ。
私の親もお礼はしたのかしなかったのか、今となってはわからないが、本当に本当に、どんなに感謝してもしきれないくらいの恩をこの書店からいただいた。
たくさんの本を読み、漫画を読み、私が漫画家になれたのも、この高橋書店のおかげだと思っている。
ありがたくてありがたくて、いつも思い出すと涙が出る。
あんな山の中の田舎の子が、東京の子供とほとんどタイムラグなしに「火の鳥」を読めたなんて…。
書店のおばちゃんが長いこと病床に就いていたとき、「私が漫画家になれたのはおばちゃんのおかげよ、ありがとう」と言ったら、おばちゃんは涙を流して喜んでくれた。
それから…
今も私の家族の語り草になっているのが「セーターやカーディガンを、ズボンの中に入れるというスタイル」だ。
当時の私には服装に関する独自のルールがあって、その一つが、「上に着ている服は必ずズボンやスカートに入れなければならない」というものだった。
それは、当時の少女漫画誌で見た絵に影響を受けたせいかもしれない。
当時の漫画やファッション雑誌では、必ずスカートの中にブラウスが入っていたのだ。
それを見た私は、それが正しい、それ以外はダメ、と思い込んだのかもしれない。
また、衣類が上にずり上がると不愉快で、違和感があった。
だからブラウスやセーターやカーディガンを必ずズボンの中に入れなければ気が済まなかった。
着心地や肌触りに関して、少しでも違和感があると癇癪をおこしていたのだが、そんなことで違和感を持つということが大人には伝わらず、ただ癇癪(とんきろ)を起こしているだけだと思われていた。
服装や持ち物、布団の上げ下ろしなど、生活全般に関して、私には独自のルールがあった。
そのルールから外れた違和感、不快感から、とんきろを起こしていたので、「勝手屋さん」と思われていた。
うーん、違うのに!! と、今になって思う。
勝手屋さんじゃないんだよ、違和感・不快感を伝えるすべがなかっただけなんだよ!
と、大人になって冷静に思うけれど、子供のころは生きにくかったなあ…。
姉の作文からいろいろ思い起こして、懐かしやら、しみじみするやら。
姉の作文は「まるで朝ドラ見てるみたいでした!」という感想もいただいたけど、そこも含めて、私と本屋さんとの関係とか、朝ドラ向きのエピソードかも。
いつか、私が漫画化したいなあ…